1月定例会のご報告
みなさん、遅ればせながら
あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします
というわけで、川崎つながろ会の杉田どぇす。
あいも変わらずコロナの影響は特に医療、福祉の分野で深刻ですが、
でき得る感染防止策をとって何とか乗り切りましょう。
それでは1月定例会の報告どぇす。
1月15日「福祉パルたかつ」川崎つながろ会 1月定例会
参加者
当事者6名(ALS)、当事者家族親族3名、支援者16名(医療職3名、学生3名、ヘルパー6名、友人1名、事務局3名)
近況報告
当事者家族Sさん:ALS患者のご主人、胃ろう手術のため入院中。
当初は胃ろうも呼吸器も拒否の意向だったが、つながろ会メンバーの言葉や振る舞いも今回の決断に影響しているのではないかと思う。
髙野会長:忙しかった。今週も千葉商科大学に講演に行くが準備できてない。
楢原さん(髙野会長ヘルパー):厚労省、横浜市役所等高野会長に同行。
小泉善さん(作業療法士):ALS協会神奈川支部役員として支部代表者会議に参加した。
3/11に神奈川県作業療法士会主催の「呼吸器リハとICT機器の有効活用についての勉強会」で登壇します。
当事者Eさん:26日にLICトレーナーのデモを受けます。
当事者Gさん:ALSの進行が早く呼吸機能が衰えてきた。12月から土屋訪問介護に入ってもらっている。
長谷川さん(杉田ヘルパー):今年はキャンプ行きます。
野村さん(杉田ヘルパー):冷蔵庫は無事搬入できたが六万円かかった。
Sさん(看護学生・髙野会長ヘルパー):楢原さんの様なパワーを得るために筋トレを始めた。
Aさん(看護学生・髙野会長ヘルパー):おみくじで凶が出た。
綾部さん(土屋訪問介護・川崎つながろ会事務局):会社勧めでビジネススクールに通い始めロジカルシンキング等学習中。
奈良原さん(髙野会長ヘルパー・人力舎所属のピン芸人):今年は年収一千万円を目指す。髙野会長の会社「創発計画」を乗っ取るw
お悩み相談
当事者:寝ている時に痰が詰まってしまう問題
夜ヘルパーは入っていない。横向きで寝ている。カフアシストは使っていない。
・痰を柔らかくする薬とメラチューブを使う。
・寝ている時には筋肉が休み、舌根沈下により気道が狭くなり易い。すると気道が狭くなる。
・夜の呼吸状態を評価してもらうのが良い。
当事者:食べ物が飲み込みにくい問題
飲み込みにくくなり、下を向いて口に入れ、飲み込むために上を向くことを繰り返している。
・同じ様な事をやっていた。
・頭を動かすのはヘルパーにサポートしてもらうと良い。
・首枕を使って上手くいった事があった。
当事者家族:LICトレーナを使い始めたが上手く肺に入らない問題
気管切開はしていない。
・背中に枕を当ててのけぞる感じで行う。肺に空気が入った時はエレベーターで高所に昇った時耳がツンとするのに似ている。合うマスクを加藤さんに頼む。
・バックを押すのには結構力が要る。下にマットを置いて上から押す感じ。
・速く押す派とゆっくり押す派両方あり。
・マスクを使っていた時は入り難かった。
・実施例の動画を紹介できる。
医療職:区分6の利用者が夫婦で名古屋に行くと言う。注意事項、アドバイスはあるでしょうか。
気管切開し、カニューレを使用。重度訪問介護は利用していない。
・泊りの場合は宿泊先で普通ベッドに寝られるかどうか。現地でマットを借りる事も考えられる。
・移乗が一人でできるか。
・吸引機を使っている場合はバッテリの確保。
・新幹線のバリアフリールームを使う。
・車いすに荷物、機器を載せる場所がない場合はリュック等。
・重度訪問介護のヘルパーを同行させる事は可能だが一人で24時間は働けない。
・トラベル介護士の知り合いを紹介できる。
注:リハビリや療養生活に関することは必ず医師や看護師などの医療者や、
作業療法士、理学療法士、言語聴覚士などの専門職の方と相談しながら進めてください。
WheeLog! IN川崎の提案(佐藤ゆ・医療職)
スマホアプリを使ってバリアフリー情報の収集、共有をする活動をつながろ会でやりたいぞ。
・車いす乗車、介助体験を通じた学びも共有する。
・SNSでシェアし友知人、知らない人にも啓発、啓蒙。
・当事者、家族、介助者皆で楽しく一日過ごす。
・まずはつながろ会参加者でやりましょう。一度ではなく継続的に。
・会場を4~5時間確保する。体験用車椅子を借りる。4月頃第一回。日を決めよう!
・看護大学の学生さん達に是非是非参加して頂きたい。
法人格の取得(髙野会長)
寄付の扱い、社会への発信、関連団体とつながる事などを考え法人化を考えたい。
自分が死んだ後も「川崎つながろ会」は残したい(ぼくは死にまっしぇんけどby会長)。
・一般社団法人、NPO法人の特徴は会長のまとめ資料をご覧ください。
・法人化は手段であって、「何をやりたいか」が大事。その議論から始める。(2~3月)
・年末アンケート結果も参照する。
・視線入力導入サポート、教育機関との連携をやりたい。
・2月の定例会で話をしたいので考えてきてね。
以上、定例会のご報告でした。
阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の記憶
28年前の1月17日は大阪府豊中市にある実家に住んでいた。
関西の葬儀社に勤めて3年ちょっとの25歳。
その日は南御堂という幅が16間(29.12m)以上もある本堂で行われる社葬の設営日だったので、
クッチャクチャの家を妻とオカンにまかせて出勤した。
出勤途中、ラジオで西宮えびす神社あたりの阪神高速の高架が落ちていると
MBSラジオ、パーソナリティの川村龍一氏が伝えていた。
これはドえらいことになったと思った。
天満にある大阪本店に着いたのは7時頃で、宿直だった先輩が眉間にしわを寄せてテレビを食い入るように見ていた。
「Hさん、はよ家帰ったらんと!えべっさんとこの阪高の高架、落ちてますって!」
思わず叫んでしまったがそりゃそうでしょ。この先輩の家は西宮えびすのすぐ近くだからだ。
「ホンマかいな…」
先輩は絶句した。
ご自宅は電話が通じず連絡が取れないとのことで先輩は懇意にしていた近所の寺の住職にスクーターを借りてすぐ家に帰ることにした。
その後のことはよく覚えていないが、とにかく社葬は行われるとのことなので設営に向かった。
大勢の犠牲者が出ている可能性について断続的に情報が入り始めた。こりゃ明日以降社員総動員だな、などと明日以降のことや先輩家族のことなんかを考えながらとにかく作業に集中することを心掛けた。
家に帰るとボトルがすべて割れたせいで酒の香りが漂っていたが驚くほど片付いていた。友人のマッチャンが手伝いに来てくれていたのだ。ありがたいことだ。築30年越えのマンションの7階はメチャクチャ横揺れが激しかったが、幸い被害は皿やカップなどの陶器やガラス製のものにほぼ限定されていた。ただベランダの窓と窓の間の壁には亀裂が入り、そこから冷たい外気が入り込んでいた。しかしそこも友人のハーボーがコーキング剤で目張りしてくれた。ほんと助かる。というわけで、我が家的には早くも平常運転に近い状態となった。
翌日、朝から南御堂で飾り付けの仕上げと本番の内容確認、そしてリハ~本番。社葬は一部のVIPが欠席や代理を立てたこと以外は予定通り滞りなく終えることができた。現場をバラし終わって、バタついてるかなぁと思いながら会社に戻ったがまだ大きな動きはなかった。それはそれだけ被害が広範囲に及び、犠牲者が多数出ていることの証でもあった。私がいても何の役にも立たないのでこの日はさっさと帰ることにした。
帰宅するとすぐにザックを出し、防寒着やインスタント食品をありったけ詰め込んだ。なんと甚大な被害が出ていた阪急電鉄が梅田駅から西宮北口駅までを復旧させていたのだ。そして地震当日、宿直明けだった先輩の家族の無事(住んでいたアパートは倒壊・奇跡的に難を逃れた)と避難場所が浜脇小学校だとわかり、西宮北口駅からなら徒歩で行ける距離だったので、とりあえず浜脇小学校に行くことにした。
家を出たのは20時前だったと思う。電車は怖いぐらい空いていて、そして静かだった。レールの上を滑る音と、継ぎ目を通るような振動がたまにするだけだ。十三(じゅうそう)駅ではあまり待たずに神戸線に乗り換えができた。ここからは西に向かい被災地に近づいていく。被災の様子を見ようと窓の景色を眺めたが暗くてよくわからなかった。そうしているうちに静まり返った電車は西宮北口駅のホームにゆっくりと進入し、停車した。
駅から南下し山手幹線に出て西に向かった。そのまま国道171号線に突き当たって南下し、国道2号線を越えて落ちた阪神高速沿いを少し西に進んでから南に下ると浜脇小学校で約3kmの道のりだ。
山手幹線は街灯だけがぼんやりついていた。道路に沿って住宅が並んでいるのだが、信じられないことに家の灯りが見当たらないのだ。そして歩いていると度々現れる倒壊した木造家屋。皆避難先で過ごしているのか、普段は車の往来も人通りもそこそこある地域の主要道路だが、そのどちらも皆無だった。私が見た範囲では街は完全にゴーストタウンと化していた。何とも言えない恐怖心と不安な気持ちを抑え込みながら暗い道を西に進んだ。しばらくすると山手会館に着いた。ここは当時の西の拠点で西宮支店でもあった。大式場の舞台上に山積みされた棺がこれからの混乱を物語っていた。椅子は撤去され、すでに火葬を待つ納棺済みの棺が所狭しと並べられていたが、外で手を合わせただけで先を急いだ。
浜脇小学校の体育館は布団や毛布にくるまる人であふれていた。この中から先輩を探すってどうするよ…。出入口付近でどうしたものかと考えていると、近くにいたおじさんが目に留まり声をかけた。「こちらにHという人がご家族で避難してきていると聞いたのですが」「ああHはんな。今病院にいっとるわ。奥さんがケガして入院しとるんよ。」さすが有名人。すぐにわかって一安心。幸い奥様のケガは重症ではないとのこと。すぐに病院に向かった。
病院は県立西宮病院ですぐ近くだった。
病院内は非常灯のみがついた薄暗い空間で人けが無く静まり返っていた。「ホントにここに患者がいるの?」という雰囲気だったが、受付があったと思しき空間の壁と、どっかから持ってきたであろうホワイトボードに多数の患者名とその病室が掲示されていた。そこに先輩の名字を見つけた。その病室は4人か6人の大部屋で、出入り口から見て左奥が先輩の奥様のベッドのようだ。そ~っと近づくと窓を背にこちら向きに座ってベッドに向かって話しをしている先輩がいた。「Hさん」と声をかけたと同時にこちらに気づき「おお、なんやお前どないしてきたんや!」と驚いていた。奥様はベッド上で上体を起こしていて元気そうに見えた。しかし、奥様がどうやって助かったのかを聞いて泣きそうになった。
先輩が道中、警察の制止を振り切って自宅に戻ったのはたぶん10時ごろと思われるが、その時点でまだ奥様は倒壊したアパートの下敷きの状態だったらしい。地震発生が5時46分なのでこの時点ですでに4時間以上経っていたことになる。そこから誰かが使っていたユンボ―を拝借して瓦礫をどかして引っ張り上げたとのこと。少なくとも5時間は瓦礫の下だったろう。その間ずっと膝を曲げた、正座したような状態だったようでそれで立てなくなってしまったようだ。幸い完治するとのこと。よかった。わずかだが先輩と生活の見通し、大阪のこと、会社のことなんかを話して終電近くの電車で帰宅した。
翌日から多くのご遺体が各地で火葬するために京都や大阪へ搬送されていた。天満の本部にも断続的に搬送されてきたのだが、現地に棺がなかったり納棺の人手がなかったりで、ほぼ発見された時の状態のままで搬送用のストレッチャーに載せられていた。多くの人が家屋の下敷きで亡くなったこの災害。ほとんどのご遺体は瓦礫の砂ぼこりにまみれていた。事前に現場から連絡をもらっていたので私と数名の社員が棺と寝間着と洗う準備をして待機していた。印象に残っているのはご遺体が握っていた小さな木片と砂。パッと見は外傷見当たらずきれいなご遺体だったが、その握られた場面を想像し苦しかったろうなと胸が痛んだ。
この後、仁川の自宅葬の飾り付けに行ったが、それはもう酷かった。道中は立派な石垣の土台ごと倒壊した邸宅が道をふさぎ、現場の邸宅も立派な石垣は持ちこたえたものの木造の古いお屋敷は明らかに柱が傾いており、大きな余震が来たら危ないのではないかと思わせる状態だった。それでも何とか飾りを終え、通常なら1時間ほどの道のりを3時間ほどかけて本部に戻った。
これが私が見た阪神淡路大震災の一部です。
この場が最適かは別として、残しておきたかった記憶のひとつ。
犠牲者のご冥福をお祈りします。
最近のコメント